ギリシャ的善と対話について

 

古代ギリシャの哲学者ソクラテスは「誰ひとりとして悪を欲する人はいない」と言いました。

この言葉は性善説を説いているのではなく、「すべての犯罪者には、犯罪に手を染めるに至った内的理由がある」という意味です。

 すなわちソクラテスの唱えたギリシャ的な「善」とは、道徳的あるいは倫理的な意味は含まれておりません。

あくまでも「自分のための善」、利己的な目的をも包含した主観的な意味合いにおける善ということです。

 私はソクラテスを批判するためにこの言葉を引用したのではありません。善という概念は多分に主観的であり、背景にある絶対悪は存在しないという立場も認めざるを得ないからです。

 さらにソクラテスが「不正を受けることのほうが不正を行うことよりも善い」と結論づけ、善の本質に迫ったことは賞賛に値すると思います。

 一方、今日の近代民主主義においては、ギリシャ的な「善」がまかり通る余地はなく、国家は憲法の制限を受け、個人は法律に縛られます。対話や協議には論理が求められ、ルールを超えたところに倫理や道徳があります。

 古代ギリシャの時代からいたずら書きは存在しましたが、近代社会においては、多くの国でいたずら書きは犯罪行為として法律に縛られております。法律がおかしいと言って、法律を破る行為は近代社会においては通用しません。

 さらに戦争犯罪者を糾弾し、弱者の立場に共感し寄り添う行為は、法律を超えた倫理観、場合によっては道徳観の世界です。

 古代ギリシャ的「善」と、近代民主主義における「善」との根本的な相剋が、現代社会における議論が長引くひとつの原因ではないでしょうか。近代民主主義の恩恵を被りながら、古代ギリシャ的「善」を主張するのは、無理というものです。

 さらにもっと本質的な問題として、法律やルールを超えた弱者に寄り添う心、共同体の一員としてどうあるべきかについて、その意識の違いを痛感させられました。

 不知を自覚し、建設的な方向性を見出すためにはソクラテスの時代にも重用された対話は不可欠です。対話で、不安や葛藤が解消されることもあります。

 しかし対話を拒否する相手にはなす術がありません。

 私ごとで恐縮ですが、かつて大喧嘩をして後輩たちとは今では最も信頼関係が築ける友人になっています。ます。そこには喧嘩という対話によりお互いの不知を自覚し、認め合ったからだと思っています。

 世の中には多くの間違った情報が飛び交っています。マスメディアにおいてもSNSにおいてもです。明らかなフェイクニュースを発信する方も、反対意見を述べる方との対話を通じて、ご自身の飛躍と変革の良いチャンスだと思うのですが、いかがでしょうか。

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