リスボンで生活を始めて、幸福に対する考え方が随分と変化しました。
この地で感じたのは、何事にも求めすぎないほどよさが人の幸福にとって大切なのではないかということです。アメリカ型の消費社会と自由競争が当たり前になった20世紀、より良い生活を志向し、より多くを所有し消費することが当たり前になりました。文明の発達により、生存を脅かす疾病や大自然の脅威から身を守り、飢餓の恐怖から解放され、さらに生活の洗練度を高めることを志向してきたことは間違ってはいなかったかもしれません。
しかし衣食住が事足りた後の人間の欲望というのは自分も含めて実に始末に負えないものだと改めて痛感します。より快適な生活、より広い家、より高性能な車、目に見えないものでは学歴、地位、名誉など。しかしこうしたものが目的化すると際限がなくなり、どこかにかすかな不満と焦燥感を常に抱えたまま日々を過ごすことになります。
そうは言ってもより洗練された生活を否定し、あえて不自由さに甘んじることが人間の未来にとって正しいとも思えません。筒井康隆の短編小説に「幸福の限界」という題名の作品があります。
石川達三の同名小説があるが、そちらではなく筒井康隆の「おれに関する噂」や、「筒井康隆全集14巻」に所収されている方です。解釈は人それぞれですが、私には物質的に満たされてゆくことでの逆説的な不満と、それでも欲望を満たすことを止められない現代人が描写されているように思えました。
人類は言語によりつかみどころのない幸福という概念を発明し、それを追求する過程で何らかの勘違いが起こしてきたように思います。その原因が文明にあるかというと私は必ずしもそうとは思いません。実際、産業革命以前にも人類は何度も戦争を起こし、産業革命以降の近代においても多くの地域において人類は飢餓に苦しんでいます。
ところで42年前に初めてパリを訪れた際に泊まったモンパルナスのホテルは1泊30フランでした。当時1フレンチフランは約60円でしたから、約1800円ということになります。その頃、家庭教師のアルバイトで月収3万円だった大学生の私の経済力に見合ったレベルのホテルでした。シャンゼリゼ大通りで見上げる4つ星、5つ星の高級ホテルは雲上の宮殿に見えた物です。しかしその後社会人になって、星のついたホテルに泊まれるようになったものの、そこで得たものは単なる快適さだけです。そしてその快適さの代償が、今後はより格付けの低いホテルに宿泊した際の言葉にはならない漠然とした不満感でした。
当時私が「雲上の宮殿」に憧れたかというとそういうわけではありません。旅費を浮かすためにフェリーや夜行列車で夜を明かしていた私には、ホテルは寝ることができればいい場所でした。従って「宮殿」はむしろ無用の長物でしかありませんでした。その無用の長物に足を踏み入れた途端、後戻りすると息苦しくなる快適さという罠にはまったのです。
世界の大富豪には極めて質素な生活をしている人を時々見かけますが、それは単なる節約だけでなくこうした原理原則に気づいた賢明さからではないかと想像します。
さて、人間が幸福から遠ざかる要因として、私は自分の欲求ではないものを求めること、資本主義社会における社会的洗脳、そして他者との比較から始まる人間の権勢欲とそれを支える社会構造があるように思います。
我々は本来自分の根源的な欲求に基づいた選択をしているでしょうか。外部からの何らかの力で、自分の欲求を捻じ曲げられてはいないでしょうか。「恋人ができる幸運のペンダント」の広告を人ごととして笑っていられるでしょうか。有名な俳優が所有している車を買う行為も、人気タレントが美味しそうに食べるチョコレートを手にする行為も、自分の欲求でないものへの依存から安心感を得るという意味ではさほど変わらないではないでしょうか。しかしこの程度のことなら自分の愚かさにすぐ気づくのですが、より深いレベルの社会的洗脳は始末に終えません。私が物心ついた高度成長期から今に至って、多くの日本人は子供を有名大学に入れて有名企業に入社させることが正しいと洗脳されてきました。そしてそれは生活の安定という一面ではある種正しい選択と言えるかもしれません。
しかしその価値観の源流が産業革命以降、工場労働者は均質なプロセスを間違いなく実行し、失敗を犯させない資本家の価値観にあるところに気づかないことには、若い起業家や芸術家などが育つチャンスを逸することにもなりかねない。そればかりでなく、人が自分の真の欲求に気づかぬまま、常に生きずらさを味わいながら生きることにもつながりかねません。
私自身、小学生時代に漫画家や野球選手になりたかった時期があります。野球選手については私の「100メートルを20秒以内で走れる、腕立て伏せを10回以上できる抜群の運動神経」でも恐らく無理なことが後に判明するのですが、仮に野球選手が私の真の欲求で、それを目指し人生の途中で挫折したとしても、今より心の充足感はあったかもしれません。
家族を支える責任という観点から生活の安定は大切ですが、自分で責任を負える範囲でのチャレンジを阻害する価値観の醸成は、人を幸福から遠ざけ、社会を無味乾燥なものにしかねない恐ろしさがあります。 そして人の価値観が均質化された中に巧みに入り込んでくるのが権力です。物言わぬ国民、ある種の幸福感に浸った社会は権力にとって実にコントロールし易い対象となります。しかしこの権力たるものも、その最小単位は人であることに変わりはません。この人の権勢欲がどこから生じ、どのように抑制されるべきかは私にとってずっと悩ましい疑問でした。かつて心理学を学美、最新のDNAと無意識についての知見を得た中で、DNAと無意識が生後の後天的な経験値までをも子孫に継承するメカニズムがあることを知りました。飢餓に対する恐怖のようなものは人類の生存のために最小限必要な要素ですが、一方で文明が発達する中で人類が変化する環境に適応するためには脳の後天的変異が起きることは確かに理にかなっています。今ではダーウインの唱えた進化論について、生物の進化が環境適応に起因するものではなく、それぞれの個体の意思によるものではないかという説が有力になってきている。
人間の権勢欲が自然界で生き残るために必要なもので、それが今も引き継がれているとすれば、次なる文明はより高い次元の文明を目指す意思の力とそれに伴う環境変化で、人類のDNAと無意識にある情報を書き換え次世代に継承する時代が訪れるのではないかという気がします。
最初の話から随分と迷走してしまったことをお許しください。
ポルトガルは2008年のリーマンショックの後にギリシャと並んでどん底だった経済が、強気の経済政策でこの数年 GDPは上向きに転じています。しかし私がこの国に来て良かったと思うのは、GDPの数値ではありません。近年の「世界平和度指数(GPI)」がアイスランド、ニュージーランド、オーストリアに次いで第4位であることと、市民自らが認める心の優しさと親切さです。
ここで改めて思うのは、本来人は衣食住事足りれば、生きているだけで幸せなはずであるということです。私は幸せとは求めるものではなく、それがすぐ目の前にあることに気づくことであることをこの地から学んだ思いが致します。
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