「空」の定義

 釈迦の「空」を理解することは、現代物理学を理解する上でも非常に重要です。

以下は脳機能科学者苫米地英人博士による空の定義です。以下、同博士のブログから引用させていただきます。
ドクター苫米地ブログ

「空」を定義する ~現代分析哲学とメタ数理的アプローチ、”Defining Emptiness”論文の日本語版
来週のインドでの釈迦成道2600年記念法要/イベントでの講演会で発表する「空」の分析哲学定義の英文論文”Defining Emptiness”の日本語版は以下。PDF版には図も入っている。

日本語版PDF
http://www.tomabechi.jp/EmptinessJapanese.pdf

英語版PDF
http://www.tomabechi.jp/EmptinessDrTomabechi.pdf

「空」を定義する ~現代分析哲学とメタ数理的アプローチ
                     
                            苫米地英人

釈迦が悟った「空(くう)」(“sunya”)とは、いったいどのようなものなのでしょうか。本稿で、西洋の現代分析哲学を用いて「空」を形式的に定義することを試みたいと思いますが、その前にまず、上座部仏教と大乗仏教において、釈迦の悟りがどのようにとらえられてきたのかを早足で見てみましょう。

空は月、縁起は指
釈迦の死後、仏教は大きく上座部仏教と大乗仏教とに分かれました。
上座部仏教は、釈迦の悟りを「縁起」という概念で説明します。縁起を一言でいえば、「すべての存在は関係で成り立っている」ということです。縁起は、「関係が存在を生み出す」と見る概念であり、「存在が関係を生み出す」という西洋的な見方とは逆です。釈迦は、縁起の思想によって、ユダヤ教、キリスト教、バラモン教等の前提であった「存在があって関係が生まれる」という概念をひっくり返しました。釈迦のこの「関係があって存在が生まれる」という思想の正しさは、後に、現代の数学や物理学が証明するところとなりました。数学でいうと不完全性定理が成功した後、また物理学でいうと量子力学が成功した後の、現代の数学や物理学、哲学においては、「存在の確定性はない」ということが証明されているからです。
釈迦が菩提樹の下で「縁起」を悟ったことは間違いありません。しかし、大乗仏教の立場では、釈迦の悟りそのものは、あくまで「空」とします。「縁起」は空を説明するための説明原理となります。釈迦は、「月を指さす指を見るな。月を見よ」と教えましたが、縁起はその「指」なのです。釈迦は空そのものについては語りませんでした。おそらく、2600年前の当時、衆人を前にして、空を言葉で説くことはあまりに難しすぎたのでしょう。代わりに釈迦が語ったのは、空を体感するための哲学である縁起でした。それゆえ、後に、空と縁起を混同する思想や、縁起を理解すれば瞑想修行をしなくても悟りが得られるといった思想さえもが生まれました。
しかし、縁起の思想は、空そのものではありませんから、縁起の思想が分かったからといって、空が分かったことにはならないと考えられます。

大乗仏教が発見した空は、「とてつもなくある」こと
一方、大乗仏教では多くの天才的な先達が生まれました。その中でも最も有名な人物がインド仏教のナーガールジュナであり、密教のツォンカパです。偉大な先達たちは、自分なりに到達した悟りの世界から、空とは何か、悟りとは何かを説き、大乗仏教を拡大していきました。仏教徒の数と地域的広がりという観点からも、仏教の成功に大乗仏教の発展が大きく貢献したことは間違いありません。
大乗仏教は中国に伝わり、中国で花開きました。その貢献者の重要人物の一人が、中国天台宗の天台智顗でした。空に関する思想は中国で徹底的に鍛えられましたが、これは意外と認識されていない事実です。仏教史において、中国における大乗仏教の発展はもっと評価されてよいでしょう。
大乗仏教は釈迦が悟った空を徹底的に追究しました。そうして大乗仏教は、釈迦の悟りの空とは、「ない」ことではなく、「ある」ことである、という発見をしました。大乗仏教が発見した釈迦の悟りの空とは、「とてつもなくある」ということ、「宇宙全部を満たすほどある」ということでした。一つの存在を見て、それが「ない」と考えるのではなく、一つの存在を見るだけで、宇宙のすべてが見えるということでした。

西洋の形式的思考法で空を定義しよう
 では、存在を一つ見るだけで宇宙のすべてが見える悟りの世界、釈迦が悟った「とてつもなくある」という空を、形式的に定義するとすれば、どのような定義になるのでしょうか。それを試みるのが本稿の主題です。
これまで、西洋人が空の概念を正確に理解することは困難でした。形式的な思考をする西洋に対して、東洋の思考法は非形式的だからです。しかし、21世紀となった現在、西洋には、現代分析哲学やメタ数理という体系化の進んだ形式的思考法があります。その現代分析哲学を用いれば、西洋人にも理解できるように、空を形式的に定義することができます。これから、釈迦の悟った「空」を、西洋の現代分析哲学を用いて定義してみます。

宇宙の概念と存在を部分関数に置き換える
西洋の現代分析哲学では、概念および存在を部分関数(Partial Function)で定義します。部分関数とは、簡単に一言でいうと「分ける関数」のことです。部分関数の考え方では、部分を定義することにより、その補集合、つまり、定義した部分以外のすべても定義することができます。
分かりやすい例を挙げると、自然数の中の偶数という部分関数を定義すれば、偶数以外のすべての自然数、つまり奇数が定義される、ということと同じです。犬という概念を定義する場合なら、宇宙を犬と犬以外のものとに分けます。そうして犬を完璧に定義することができれば、犬を除く全宇宙を定義できたことになります。
さらに、概念だけでなく、物理的な存在も部分関数で定義できます。(ここでは物理空間における「概念」のことを「存在」と呼びます。)ある特定の個人の存在を定義する場合なら、宇宙をその個人と、その個人以外のものとに分けます。そうして、その個人を完璧に定義することができれば、その個人を除く全宇宙を定義できたことになります。
これが分析哲学における部分関数による概念および存在の定義です。
このように、概念および存在を部分関数に置き換えると、その概念もしくは存在の持つ情報量の大小によって、部分関数どうしに順序が生まれます。情報量が少ないとは、ある概念や存在を、より少ない情報量で表しているということであり、情報量が少ないほど抽象度が高くなります。情報量のより少ない部分関数が、上位部分関数であり、情報量のよい多い部分関数が、下位部分関数です。
例えば、動物という概念と、犬という概念とを比べると、動物の方が情報量が少なく、犬の方が情報量が多い。したがって、動物と犬の間では、動物の方が犬よりも抽象度が高く、動物は犬の上位部分関数である、という順序関係があります。
一方、部分関数どうしで必ずしも順序を決められない場合もあります。例えば、犬という概念と、猫という概念の間では、どちらかの情報量が多いというわけではありませんから、順序を決めることはできません。

集合論を用いると、宇宙は包摂半順序集合である
ここでさらに、集合論(set theory)という数理モデルを用います。ただ「集合」(set)と呼ぶ場合は、集合内の各要素の順序は意味を持ちませんが、「順序集合」(ordered set)と呼ばれる集合内では、各要素の順序が意味を持ちます。表記の習わしとして、集合は{}で表し、順序集合は、順序に意味があるということが分かるように、<>で表します。<1,2,3,4>は値の小さい順に並べた順序集合です。ここでの順序関係とは、値がより大きい(<)、もしくは、より小さい(>)という関係のことです。
 ここでまず、宇宙を概念と存在の集合として定義します。そして、概念と存在における情報量の大小を、順序集合における順序関係に用います。
 先に、「犬という概念と、動物という概念とを比べると、犬の方がより情報量が多く、動物の方が情報量が少ない。したがって、犬と動物の間では、動物の方が犬よりも抽象度が高く、動物は犬の上位部分関数である」と述べました。このような上位下位の関係を、包摂順序といいます。包摂(subsume)とは、情報量の大小で並べることです。情報量の少ない方が、情報量の多い方を包摂します。つまり、動物は犬を包摂します。また、このように、任意の二つで必ず順序が決められる集合のことを、包摂順序集合(subsumption ordered set)といいます。
 一方、犬という概念と、猫という概念のように、情報量の大小で必ずしも順序を決められない関係を、包摂半順序といいます。そして、任意の二つで必ずしも順序を決められない集合のことを、包摂半順序集合(subsumption partial ordered set)といいます。
宇宙における概念および存在には、犬と猫など互いに順序を決められない概念が含まれますから、任意の二つで必ずしも順序を決められるわけではありません。したがって、宇宙のすべての概念と存在は包摂半順序集合として定義できます。

束論を用いると、宇宙は包摂半順序latticeである
 宇宙をより正確に定義するために、さらにここでもう一つ、束(lattice)という数理モデルを用います。束(lattice)を理解するために、まず、lub(least upper bound)とglb(greatest lower bound)について説明します。
 順序集合が与えられたとき、任意の二つの要素の共通の上位にあるものをupper bound、日本語では上界といいます。そして、upper boundの内、最も下位にあるものをlub(least upper bound)、最小上界といいます。例えば、<犬、猫、動物>という半順序集合があるとすると、情報量の大小で見て、犬と猫という任意の二つの共通の上位概念は動物ですから、この場合、動物がupper boundであり、lub(least upper bound)です。
これとは反対に、任意の二つの概念もしくは存在の共通の下位にあるものをlower bound、日本語では下界といいます。そして、lower boundの内、最も上位にあるものをglb(greatest lower bound)、最大下界といいます。例えば、<プードル、犬、ペット>という順序集合があるとすると、情報量の大小で見て、ペットと犬という任意の二つの共通の下位概念はプードルですから、この場合、プードルがlower boundであり、glb(greatest lower bound)です。

このように、順序集合もしくは半順序集合の内、lub かglb のどちらかもしくは両方が最低ひとつはある順序集合のことを、束(lattice)といいます。先に、宇宙のすべての概念と存在は包摂半順序集合であると定義しました。また、概念と存在には上記のようにlubとglbがありますので、宇宙は包摂半順序lattice(subsumption partial ordered lattice)である、と定義することができます。

空は、包摂半順序latticeの宇宙のtopである
 次に、包摂半順序latticeの宇宙における、任意の二つの概念もしくは存在のlubと、glbについて考えます。latticeにおける任意の二つの概念もしくは存在のglbを、bottomといいます。また、latticeにおける任意の二つの概念もしくは存在のlubを、topといいます。
 宇宙から任意の二つを選び出す、例えば宇宙からペットボトルと犬を選び出して、その共通の下位概念の内もっとも下位にあるもの、包摂半順序latticeの宇宙のbottomとは、何でしょうか。現代分析哲学では、それは「矛盾」であると定義できます。それは、「ペットボトルなのにワンと鳴く」ようなもので、情報が少し多すぎるからという理解をすることができます。
 一方、宇宙の任意の二つのlub、包摂半順序latticeの宇宙のtopは、現代分析哲学では「いくらでもある」と定義されています。いくらでもあるということは、特定の概念が存在しないということです。つまり、現代分析哲学では、「すべての存在の上位概念は存在しない」とされているのです。したがって、西洋の現代分析哲学における宇宙は、bottomは「矛盾」で閉じて、topは「存在しない」で開いている、ということになります。
ここで、釈迦の仏教哲学を用います。仏教哲学では、すべての存在の上位概念は「存在する」と考えます。それが「空」です。釈迦の仏教哲学における「空」は、すべての存在の上位概念です。したがって、西洋の現代分析哲学に、東洋の仏教哲学を用いると、任意の二つの概念もしくは存在のlub、包摂半順序latticeの宇宙のtopは、「空」となります。空は、宇宙の何よりも上位であり、何よりも情報量がわずかに少ない概念です。したがって、空は宇宙すべてを潜在的に内包している、ということもできます。
このように、西洋哲学と東洋哲学を融合すると、「宇宙は、bottomは『矛盾』で閉じ、topは『空』で閉じている包摂半順序latticeである」と定義できます。そして、「空は、包摂半順序latticeの宇宙のtopである」と定義することができるのです。このように、冒頭で述べたとおり、「空」は、「縁起」とは異なる別の概念です。
宇宙と空に関するこのような見方は、数学でいうと不完全性定理が成功した後、物理学でいうと量子力学が成功した後の、現代の数学や物理学、哲学においては、まったく違和感のない見方となっています。

瞑想修行が空を体感する唯一の道
 ただし、以上は「空」の定義にすぎない、ということを忘れてはいけません。空の定義が分かったからといって、空が分かったことにはなりません。空を理解するには、瞑想を行うしか道はありません。
 空を体感するために、先人たちは様々な瞑想法を生み出してきました。例えば、天台宗を開祖した智顗は、止観という瞑想法を生み出し、その方法を『摩訶止観』という講義で伝えました。弟子によって筆録され現代にも残る『摩訶止観』では、サマタ瞑想とヴィパサナー瞑想が解説されています。上座部仏教では、サマタ瞑想とヴィパサナー瞑想を別々に行いますが、大乗仏教ではこの二つを同時に行います。
大乗仏教の止観では、自我を徹底的に見ることによって、悟りの世界を目指し、空を体感しようとします。では、なぜ、自我を徹底的に見ることによって、空を体感することができるのでしょうか。
先に述べたように、現代分析哲学では、概念および存在を部分関数で定義します。部分関数の考え方では、部分を定義することにより、その補集合、つまり、定義した部分以外のすべても定義することができます。特定の個人の自我を定義するなら、宇宙をその個人の自我と、それ以外のものとに分け、その個人の自我を完璧に定義することができれば、その個人の自我を除く全宇宙を定義できたことになります。つまり、自我が分かれば、宇宙が分かるのです。自我を完璧に理解し、全宇宙を見ることができたら、最後に自我を取り去ります。そうして宇宙から自我を取り去れば、空が現れ、空を体感することができます。
このように自我を徹底的に見ることで空を体感しようとする瞑想法は、釈迦の十二支縁起の瞑想をはじめとして、中期・後期密教を含め様々な仏教派に残されています。また、この方法とは異なり、情報量を次第に少なくしていき、抽象度の階段を上がることで空にたどり着こうとする瞑想法もあります。

今年で丁度2600年とされる、釈迦成道後の長い期間に、仏教は各地に広まり、先達が徹底的な瞑想修行を行ってきた結果、仏教の体系は非常に豊かになりました。そして、空を体感するための瞑想法も様々に生み出されてきました。さらに、西洋の形式的思考法の体系化も進み、現代分析哲学を用いて空を形式的に定義することも可能となりました。
しかし、空を体感し、悟りに至るためには、瞑想修行を行うしか道はない――これは、釈迦成道後2600年を経た現在も変わらないのです。



関連記事

コメント

この記事へのコメントはありません。

TOP