富という幻想、不幸という虚構

 リスボンに来てから物欲がどんどん薄れてゆく自分に気づきました。同時に日本にいた時は知らないうちに消費と所有に駆り立てられていたことに気づきました。 

 物欲が減ったの理由は、自然環境が豊かで地域社会の繋がりの強い社会環境により価値観に変化が生じたこと、さらにある年齢に達した時に富のあくなき追及が幻想であることに気づいたからです。

 私は決して富裕層と呼ばれるほどの資産家ではありませんが、およそお金で買える欲求は満たした思っています。その結果、この先さらに資産や消費が拡大したときに幸福度や満足度が拡大するかどうかがすでに見えてきたのです。すなわち、今より経済的、物質的に快適な生活を得られたとしても、人間の根源的な幸福感、満足感は達成できないことがわかったのです。

 実際、私の直接間接の知り合いの大金持ちの人の中には、実に質素な生活をしている人も少なくありません。彼らは自分の富をひけらかすことなく、実に謙虚で品格のある生活態度を貫いていることに頭が下がります。

 経済学の用語に限界効用というのがあります。消費財および用役が、消費者に与える主観的な満足度(効用)について、消費量が一単位増加した時に伴い増加する満足度の大きさのことです。
 私の場合、主観的な意味で消費生活の限界効用に達したのですね。限界効用の内容や時期は人によって異なると思いますが、早ければ早いほど富を求めるための無駄な時間や労力を省けるのではないかと思います。

 それに気づくと、生活全体から消費生活を差し引いた残りの価値、ここに深みと広がりを求めることができるようになります。それは精神生活の深まり、信仰心、他者への愛、社会貢献など、限界効用のない人としての本質的な生き様を経験できる時空の広がりです。
 
 このようなことを人様にお伝えすると、人生には病貧争災があるではないか、消費生活とそれ以外という対比では、人生の問題は根本的に解決しないではないかと問われるのではないかと思います。

 確かに病貧争災という不幸現象が人生にはつきものであり、その解決なくして幸福は得られないというのは、極く常識的な考えと言えうなずけます。しかし、ここで、幸不幸に客観的な尺度があるのかどうか立ち止まってよく考えてみてください。

  私は認知科学を学び在家出家するプロセスの中で、身の回りに起きる現象は、すべて自分自身の解釈に依存していることに気づきました。極論すると、いかなる現象が周囲で起きようとも、自分自身が不動の心を維持できれば、不幸なる概念は幻想でしかないことに気づいたのです。

 もちろん愛する人の死などを美化するつもりは毛頭ありません。それを不条理と考え、怒りや悲しみに包まれるのは人として当然のことだと思います。しかしこれを受け入れるか否か、そしてどう解釈するかの選択肢は私たちに委ねらていることは確かことだと思います。

 百歩譲って現状では不幸現象と捉えたとしても、果たして時間経過とともに、それが本質的な不幸現象であったかどうかは未来にならないとわからないことがあるのです。

 愛する人にも、そして自分自身にもいつかは死が訪れます。不条理を巨視的な視点から眺め、時間因果を超越する境地こそが人生に与えれらた課題のような気がします。

 かつてはあらゆる現象に満足し感謝することが幸福と考えていた私ですが、今はあらゆる環境を幸不幸の区別をつけることなく受け入れる、無色透明な境地を幸福と感じています。

 私たちは時間を含む四次元世界に生きています。諸行無常の時間経過により、自分を取り巻く環境は常に変化し続けています。それを固定的に捉える心が不幸という幻想を生み出させるのではないでしょうか。ある医師が、いわゆる鬱の方は物事が瞬間瞬間変化していることの認識が希薄であると言っていたのを聞いてなるほどと思いました。

 物事を無色透明な境地で、あるがままに受け入れる、良し悪しを決めつけない、世は生々流転の境地の中で変化し続けていることに気づいた時、悩める方の気持ちは少しでも和らぐのではないでしょうか。


「雨はいつか止む」、私が仕事で窮地に陥っていた時、かつての上司がかけてくれた言葉です。

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