私は幼い頃から海外への憧れは人一倍強かったと思っています。
特に映画好きの母に連れられて、幼い頃から洋画に親しんだことが、私の海外への憧れを加速したことは間違いありません。現代に比べると、私がもの心ついた頃、すなわち日本の高度成長期における「外国」は、果てしなく遠いところにありました。
スクリーンを通じて見る外国は私にとって憧れの別世界でした。さらに1960年代の中頃、父が出張や駐在で北米に旅立つ際に、羽田空港に見送りに行くことは、映画と並んで私の海外への憧れをさらに強いものにしました。海外旅行が自由化される前の羽田空港国際線は、出国手続きに向かう通路に真っ赤な絨毯が引かれ、見送り風景たるや華々しいものでした。ロビーでの胴あげや、タラップの上で見送りの人にハンカチを振る乗客の姿が普通に見られた時代です。当時は外国と言えばアメリカ、南の島と言えばハワイというのが多くの日本人の共通認識でした。映画だけでなく、アメリカのテレビドラマが日本でたくさん放映されたことも影響したと思います。
その後私にとっての憧れが、アメリカからヨーロッパに移っていきました。ちょうど小学校6年になった頃です。洋画やテレビドラマの影響に加えて、小学校の社会科の授業で知るパリやローマ、そしてクラスにいた帰国子女の同級生から聞く話に心がときめきました。中学生になる頃には、鉄道の趣味が飛行機に移行し、羽田空港に通いつめました。ちょうどジャンボジェット機が就航した頃で、最初はアメリカから、続いてヨーロッパから巨人機が飛来しました。そしてついに自分がジャンボジェット機でヨーロッパに飛び立つことができたのは20歳の時です。成田空港が開港する前の年、まさに旧東京国際空港最後の年でした。
北極周りのヨーロッパ線。若い方には北極経由でヨーロッパに飛ぶと言っても何のことかわからないかもしれませんが、当時は旅客機の航続距離の関係で、アラスカのアンカレッジで給油して北極上空を飛行してヨーロッパに向かう便があったのです。ニューヨーク行きもアラスカで給油しました。現在でもヨーロッパ行きの貨物便で、片道をこのルートを使う航空会社があるそうです。
当時、すなわち70年台の中頃は、北極経由便は羽田を21時から22時30分くらいに出発、アンカレッジに現地時間の午前中に到着、約1時間の滞在の後に北極上空を通過して早朝のヨーロッパに到着しました。アンカレッジを飛び立った後はずっと白夜のフライトで、ルートによって極点上空かややグリーンランド寄りを飛行しました。私を乗せたエールフランス273便は、朝もやの立ち込めるパリ・シャルルドゴール空港に舞い降りたのです。
これは私の海外旅行の始まりであり、また映画で見た世界の追体験の始まりでもありました。
子供の頃から見たパリを舞台にした映画と言えば数え始めたら際がありません。私が生まれた年に封切りされた「昼下がりの情事」、60年代に入って「シャレード」、「男と女」、「冒険者たち」、私が生まれる前の映画「死刑台のエレベーター」は何回見たことか・・・・・。
そして映画と共に欠かせないのがスクリーン・ミュージックです。ジョン・バリー、ヘンリー・マシーニ、フランシス・レイなど、最初にスクリーン・ミュージックを聞き後から映画を見たケースも数多くあります。映画のシーンと背景の音楽は切り離せない関係にあるものの、映像と音楽はそれぞれが独立して私の頭の中で再生され、また新しい世界を作り出すこともありました。とりわけ映画より先にテーマ音楽を聞いた場合は、その想像力は際限なく自在に広がりました。
そのひとつがヘンリーマンシーニによる「ナタリーの朝」のサウンドトラックです。中学1年の時に聞いた時に想像の中に現れた景色は、どういうわけか紅海沿岸でした。紅海沿岸を舞台にした洒落た恋愛物語を想像したのです。
実際に映画を見たのはその数十年後、舞台は何とニューヨークのブルックリン、恋愛映画には違いありませんが、劣等感に悩む少女が精神的に成長して自立してゆく様をテーマにした映画でした。私の想像の産物である「紅海のナタリー」の映像はリアルに私の頭の中に残りつつ、同時に実際の映画でブルックリンからマンハッタンに向かうフェリーの残像は、美しく私の脳裏に再生され流のです。
映像と並んで、想像力と夢を広げてくれるスクリーンミュージック。私にとってヘンリー・マンシーニは古き良きアメリカのエレガンスそのものです。そしてジョン・バリーは英国とロンドンの街そのものを表現し、フランシス・レイはパリのエスプリそのものです。
映画で見た風景は、たまたまその舞台を訪れることもあれば、通り過ぎることもありました。中には映画の舞台を探して街中を歩き回ったいたこともあります。私が最も多くの回数を観た映画のひとつ、アルフレッド・ヒチコックの「北北西に進路を取れ」(North by Northwest)ではシカゴ市内のシーンを求めて市内のリッツ・カールトンホテル、そして郊外のミッドウエイ空港を訪れてみました。主役のケリー・グラントが空港でチェックインしたシーンのあたりを探し歩き、映画の場面を回想してみました。
その一方で、行ったことのある場所に後から映画で出会うこともありました。例えばフロリダのキーウエストにあるヘミングウエイの家もそのひとつです。訪問した翌年の1989年に封切りされた007シリーズ第16作「消されたライセンス」に登場しました。私のお気に入りの場所だけに感慨ひとしおでした。
移動の自由を手にし、世界を旅することは素晴らしいことです。しかし世界の多くの人が自分の住む地域から一歩も出ずに生涯を終えます。私自身もそれを直接あるいは間接的に見聞きしたことがあります。しかし考えてみると、物理的に移動することだけがその人の視野や見聞を広げるための手段なのだろうかとふと考えることがあります。私自身を振り返ってみても、まだ海外旅行に行けなかった頃の方が、はるかに豊かな想像力と真摯なロマンに満ちあふれていたような気がするのです。
人間の偉大なる脳は外界を感取すると共に、物理的移動なくして想像の旅をすることができます。ホーキング博士のように身体的な制限のある状況においても、人の頭脳は自分の内側に壮大な宇宙を構築しうるのです。
さらに言えば、外界を感取する能力において、人は自分のフィルターやフレームで多くの情報を遮断します。しかも過去の記憶を元に情報を無意識に取捨選択しています。したがって見ているようで見ていない状況が生まれ、見えているものも人によって異なるという現象が起きるのです。
そんな中で顔認証技術やVR(バーチャルリアリティ)技術が近年急速に進歩しました。顔認証技術をもってすれば、人間が識別できなレベルで顔を正確に認識し、VRはいながらにして日常では体験し得ないことを体験できます。人間は元々感覚器官を通して外界を認識します。そういう意味において、人の体験はすべて脳内で起きているに等しいのです。VRはそうした脳の特性を利用して、人の脳内世界を拡張しうるのです。
1990年に封切りされたアメリカのSF映画「トータル・リコール」においては人への記憶の植え付け処理により、人の記憶を書き換えるシーンがありました。こんな技術が実現すれば、VRで旅をリアルタイムに体験し、記憶の書き換えで旅の思い出が作れることになります。しかし記憶の連鎖で自己のアイデンティティが保持されることを考えると、記憶の書き換えは倫理上の問題をはらんでいます。
交通機関の発達で人類は移動の自由を獲得しました。かつて建築家の黒川紀章氏は、現代の人類をホモ・サピエンスならぬホモ・モーベンス(動民)という言葉で表現しました。その次に来るVRを身まとった人類を何と表現すべきでしょうか。
VRの進化で人類はいながらにして自由に旅をし、なおかつ交通機関による移動はクラシックでエレガントな旅の手段として残る時代が来るのかも知れません。
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