「赦し(ゆるし)」について

国連難民高等弁務官そしてアフガニスタン支援政府特別代表を歴任された故緒方貞子氏の「テロの原因は憎しみの連鎖」」という言葉は私にとって衝撃的でした。それはテロの本質を語っているだけでなく、戦争をはじめとする争いごとの本質を物語っていると気づいたからです。争いの始まりは必ずしも憎しみだけではありません。道理を超えた欲望に端を発することも多いと思います。しかし争いが始まった後に、憎しみの連鎖が始まるとそれを止めるための知恵とエネルギーは計り知れないものがあります。

 憎しみと復讐の対極にあるのは赦し(許し)です。
 近年それが最も端的に表現されたのが、南アフリカ共和国大統領ネルソン・マンデラ氏の赦しではないでしょうか。反アパルトヘイトの闘士だったマンデラ氏は、全人種の融和策を政策として打ち出しました。一言で言えば白人を赦し、黒人の白人への復讐で国家が混乱することを未然に食い止めたのです。

  もう何十年も前の話ですが、母が私に1つの新聞記事を見せてくれました。それは妻を交通事故で亡くしたご老人の談話でした。ご老人が加害者である若者を許すに至った深い心の変遷を描いた手記です。ご老人は最初は若者を憎んだものの、自分も同じ年の頃には数々の過ちをおかしたことを思い、まだ将来のあるその若者を許すことにしたというのです。

母も私もこのご老人の生き様に感動したのですが、いま振り返るとその若者にも老人の心を動かす反省と謝罪の言葉があったのではないかと想像します。

 ところが近年の日本社会で感じるのは、謝罪の言葉が少なくなったように感じられることです。ありがとうございますという言葉はよく聞きますが、ちょっとした会話のやり取りの中に申し訳ございませんの言葉が発せられないもどかしさを感じる事が少なくありません。特に若年層にそれが顕著に思えます。当方にさんざん迷惑をかけた営業職の若者が最初に送ってくるメールの冒頭が「先日は大変申し訳ございませんでした。」ではなく「先日はありがとうございました。」で始まっているのを見るにつけ、世相の複雑さを感じるのです。

 その一方で、ポルトガルにおいても謝って当たり前の場面における謝罪の言葉が少なく感じられるのです。海外では自動車事故の際にすぐ謝ると、自身の過失を認めることになるので注意が必要ということをかねてより聞いていました。どうやら、それとは違うようなのです。さらに経験を重ね思考を巡らせると、これはポルトガルだけでなく、多くの欧米社会においては、責任の所在を追求するよりも問題解決と再発防止を優先する価値観が支配していることも背景にあることに気づきました。

 そこから気づいたのは、昔から言い伝えられる「罪を憎んで人を憎まず」という言葉の中に、赦しの本質が潜んでいるように思えてきたということです。

 その一方で、かつて日本の社会では当たり前だった、過ちに対して相手に謝罪することは、豊かな人間関係と社会習慣を形成するために大切ではないかと思います。
 
  謝るべきときに謝らない。私はたった数十年の間に日本人の本質が変容したとは思いません。そうではなく国家や組織のリーダーのあり方によって、日本人のコミュニケーションのあり方が変容したように思います。

 明らかな不正に対して国民に謝罪しない政治家、過去の過ちに対して謝罪しない国家、このようなリーダーが牽引する社会の歪みが日本人のコミュニケーションの根底を揺らがせているように感じるのです。

 さらに責任追及にばかり終始し、建設的な問題解決に向かおうとしない社会背景という対極に視点を向けると、そこには別の問題が潜んでいるように思います。

私自身、先のご老人のような寛容で清々しい心の境地に達しているとは到底言い難いと言えます。しかし赦しと謝罪ということの奥深さと、その本質的な意味に生涯向き合って生きて行きたいと思う次第です。

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