1950年代末、テレビ放送の黎明期、評論家の大宅壮一氏が「一億白痴化」という言葉を発信し、作家の松本清張氏がそれに「総」をつけて「一億総白痴化」という言葉が生まれました。
近年テレビの視聴率の低下で、一億総白痴化のピークは過ぎたように思いますが、その一方で一億総洗脳が密かに進行し、いまだにその力を維持していることを感じます。
河野太郎元ワクチン担当大臣がテレビを通じて「2億回打って死者はゼロ」という大嘘を国民に伝え、さらに総理大臣や医師までもがワクチン接種の有効性をテレビで訴える中、国民の約8割が有害無益な新型コロナワクチンを接種しました。
その結果、史上最大の薬害が発生したことを振り返るにつけ、テレビは正しい情報がだけでなく、誤った情報においても国民を洗脳し、危険な方向に向かわせるリスクを背負っていることを実感します。
これは新聞においても同じです。接種開始後から死者や後遺症者が出ていたにも関わらず、テレビのみならず多くの新聞が黙殺し続けて現在に至っています。
かつてオウム真理教の教祖・麻原彰晃は救済計画を実行するという掛け声のもと、サリンをばら撒き多数の人を死にいたらしめました。
新型コロナの流行時においても、感染症からのワクチンによる救済計画で大勢の方々がお亡くなりになり、後遺症でお苦しみになられています。
今やカルト宗教のみならず、政府やメディアによる知らず知らず洗脳にも十分な注意を払う必要があることを痛感いたします。
こうした国民の命に直接関わること以外に、十分な議論を尽くさないままに、テレビや新聞を通じてLGBT法、選択的夫婦別姓、移民政策などが実に軽々しく伝えられてきました。
今から20数年前、ジェンダーフリー教育という言葉が世に知らしめられた際に、当時東京都知事をされていた石原慎太郎氏がこれに対して、
「特攻隊員に千羽鶴を折る乙女の気持ちが、今の教育でわかるのか!」と批判されました。
私は当時この石原慎太郎氏の言葉を聞いて、実に清々しい気持ちになったものです。浅学の私では表現できなかったジェンダーフリー教育に反発する気持ちを、文学者らしい言葉と表現でまとめてくださったことが嬉しかったのです。
これは男性の自己犠牲と女性の献身性の心を、戦時中の日本人の姿を通して表現したものですが、多くのメディアが戦争を美化しているなどという、相変わらずの的外れの批判をしたものです。
石原氏の発言が戦争を美化したり、教育への政治介入でないことはある程度の教養と知性さえあればわかるはずですが、議論の本質を見ずに揚げ足取りをするマスメディアの浅薄な論調には呆れるばかりでした。
戦時下だからこそ芽生えた若い男女の真摯な心の琴線に触れることの方が、ジェンダーフリーなどという馬鹿げた発想より遥かに情操教育上好ましいのではありませんか。
ジェンダフリー教育などを標榜する方々は、古今東西の芸術作品に描かれた男性と女性の美しさ、愛おしさに触れたことがないのでしょうか。
ご自身の父母、祖父母を仰ぎ見た時、その存在と役割の尊さにジェンダフリーなどという不遜な言葉は発せられないはずです。
違いがあるからこそ美しく尊いのであり、違うものを同じもの見なすその単細胞な発想に、現代社会の病理を見る思いが致します。
知育ばかりが先行して、情緒の大切さが置き去りにされた現代の教育システムもその背景にあるように思います。
あれから歳月が流れ、今度はLGBT、多様性、選択制夫婦別姓、多様性などという、これまた軽薄な議論が展開されていることに驚くばかりです。
元より性的少数者の人権は憲法で守られています。
生物学的に人間は半陰陽(性分化疾患)という少数の例外を除けば、男性と女性しかおりません。
性の自認についても医学的に認めれているのは、性別不合(Gender Incongruence / ICD-11)、性別違和(Gender Dysphoria / DSM-5-TR)のみです。トランスジェンダーは医学的診断名ではありません。
これだけで男女共用トイレ、女性競技に男性が参加などいうことがいかに狂っているか、女性の権利を著しく損なうだけの有害無益なものであることが理解できるはずです。
男女共用トイレを設置するということは、女性用トイレに男性が入ってくるということです。女性にとってどれほど気味の悪い恐ろしいことか誰しも理解できるはずです。
ボクシング競技などでは、男性と女性の筋力差を考えると、男性が女性競技に参加すれば場合によっては女性の命の危険にもつながりかねません。
選択制夫婦別姓も同様です。ごく少数の人にとってのメリットだけが強調されて、社会全体に波及するデメリットの議論が極めて脆弱です。別姓よりも女性の社会的地位の向上の方が遥かに重要であり、木を見て森を見ぬ現代社会の軽率な発想に相変わらずの想いです。
多様性を標榜して、私のようなひ弱で臆病な男が自衛隊を志願したらどうなりますか。多様性、DEIがもたらした社会の混乱はバイデン政権で実証済です。
「異常の構造」(木村敏著)という書籍の中で、著者は異常という概念を常識の欠如という言葉でまとめています。
常識を打破することによりイノベーションが生まれるというプラスの側面があると同時に、世の中には変えていいものと変えてはいけないものがあるということです。
男女共用トイレなどいうものは、そもそも議論の対象にはならず、常識で判断してダメなものはダメ、ただそれだけです。
現代は明らかな「異常」が正義の仮面を被って、社会に跳梁跋扈する恐ろしい時代に突入したことを実感します。
「女性が輝く社会」などという政府のスローガンも、私からしたら女性に対して失礼極まりないものと考えます。
すべての女性は生まながらにして輝いているのであり、社会に出て働く女性も、家で家事と子育てに勤しむ女性も、たとえ病で床に伏せている女性であっても、それぞれに美しく輝いているのです。
男女共同参画などという言葉も、おそらく仕事に就く女性を増やしたいという政府の意図から出ているように推測します。
こういう奇妙な言葉を作る人たちは、家事と子育てをする女性がいかに大変な社会的役割を担っているかが理解できないのでしょう。
専業主婦も、仕事を持つ女性に劣らぬ尊い社会貢献をしているという認識を持つべきです。そもそも女性が男性と対等の社会の構成員であることは、このような言葉を作る以前にすでに男女共同参画社会基本法で規定されているのです。
政府の流す情報、それを右から左に流す御用メディアからは距離を置き、物事の本質を知り、考察をすることがますます大切な時代に突入しました。
私の人生のバイブルの1つでもある「ヨーロッパの個人主義」のまえがきで、西尾幹二先生は「この少著は、自分について、他人について、社会について、世界について、いかなる確信も持つべきではないことを確信を持って説いたに過ぎぬ。」と書かれていいます。
これは単に疑い深い人間になれという意味ではなく、先生がその次に書かれている「常に自分の弱さから出発せよ。未来に見取り図を掲げるな。」に記させている通り、自身の持つ確信をも懐疑をすべきとのメッセージととらえています。
この投稿は、世の中の動きに右往左往する、ひ弱な私自身への戒めとして書かせていただきました。
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