リーダーなき日本の未来

 写真は私の成蹊小中高の大先輩、元内閣安全保障室長の佐々淳行先生とご一緒に撮影させたいただいた最後の写真です。2014年に外国人特派員協会でお目にかかかった時の写真です。佐々先生から30代の頃に危機管理についてのレクチャーをしていただいたことは、私の人生にどれほど大きな影響があったか計り知れません。

 佐々先生から危機管理において重要なことの一つが「最悪の事態の想定」です。

 危機管理の成功例として1986年に発生した三原山噴火時の官邸主導による全島避難があります。

 これに関して私が30代前半の頃、佐々淳行元内閣安全保障室室長からその時の経緯をお聞きしたことがあります。

 「もし噴火しなかったらどうします」と問う部下の佐々淳行内閣安全保障室長に対して当時の後藤田正晴官房長官は、

「腹でも切ればいいだろう?住民が助かればそれで良いさ」

「佐々君、きみも巻き添えだよ、ワハハ」

 と答えたとのこと。

 独断での避難命令に大騒ぎするマスコミを避けて都内のホテルに逃げ込んだ後、

「佐々君、島民が無事避難できたね」

「これで大騒ぎになる前に我々も逃げるぞ。ワハハ」・・・

 
 このお話をされた際に、佐々先生は「この危機の最中に霞が関(国土庁など関係省庁)は何をしていたと思う?」と問いかけられました。

 「何と、災害対策本部の名称をどうするかを3時間も議論していたんだよ!呆れたね!」
 

 佐々先生は2018年前にお亡くなりになり、弔問にお伺いしました。あの独特の笑顔をされた遺影の前で思わず涙がこぼれました。

 今佐々先生が生きていらっしゃたら、政府の新型コロナ対策をどうご覧になるでしょう。

 神戸女学院大学名誉教授でフランス文学者の内田樹氏が、日本政府の新型コロナウイルス対策の失敗に関して次のように語っています。

 「何もしないことによって最悪の事態の到来を防ごうとしたのです。これは日本人に固有な民族誌的奇習です。気持ちはわからないでもありませんが、そういう呪術的な思考をする人間が近代国家の危機管理に当るべきではない。

 先行する成功事例を学ばなかったもう一つの理由は安倍政権が「イデオロギー政権」だからです。政策の適否よりもイデオロギーへの忠誠心の方を優先させた。だから、たとえ有効であることがわかっていても、中国や韓国や台湾の成功例は模倣したくない。野党も次々と対案を出していますが、それも採用しない。それは成功事例や対案の「内容」とは関係がないのです。「誰」が出した案であるかが問題なのです。ふだん敵視し、見下しているものたちのやることは絶対に模倣しない。国民の生命よりも自分のイデオロギーの無謬性の方が優先するのです。「無謬(むびゅう)性の原則」とは「ある政策を成功させる責任を負った当事者の組織は、その政策が失敗したときのことを考えたり議論したりしてはいけない」という信念が優先するのです。こんな馬鹿げた理由で感染拡大を座視した国は世界のどこにもありません。」

 私は内田氏が指摘する民族的奇習について、これまで数多くの学者の論文や著作からその源泉がどこにあるかを常々考えてきました。とりわけ近代においては国内では中根千枝氏の「タテ社会の人間関係」、山本七平氏の「空気の研究」、野中郁次郎他著の「失敗の本質」、海外ではRuth Benedictの「The Chrysanthemum and the Sword: Patterns of Japanese Culture」などの著作を通じて、日本社会の根底にある意思決定の複雑さの要因どこにあるかの一端を垣間見てきたつもりです。
 しかしながら、日本社会特有の社会構造の中にあっても、為政者がしっかりとした倫理観とビジョン、そして国民への深い愛情を持っているならば、今回のような事態は回避できたに違いないと確信しています。

 台湾の蔡英文総統、ドイツのメルケル首相などの国民に向けての力強いメッセージを聞くにつけ、有事平時を問わず、国家元首の采配如何で国民生活は大きく影響されることをこれほど思い知らされたことはかつてありません。

 現在の日本には、当時の後藤田官房長官のようなトップダウンの決断を下しかつ責任を取れるリーダーが不在です。

 このような状況下では、国民ひとりひとりが自他防衛する以外にありません。
それにしても、台湾有事への備えを日本政府はどうするつもりなのでしょうか。

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