均質化する文明社会

お父さんは暖炉の前のロッキングチェアーでパイプを燻らせながら革表紙の分厚い本を読んでいる。お母さんはキッチンで静かにスープを温めている。学校から帰宅したジョンの後からシェパードがついて入ってくる。


 お父さんが夕食を囲むテーブルでジョンに向かってこう言った「ジョン、今日学校であったことを、お父さんとお母さんに話してごらん。」

 少なくとも私より上の世代の方は、日本の高度成長期に放映されたアメリカのテレビドラマでこんな光景をご覧になったことが1度や2度はおありでかと思います。
 建築家の故宮脇檀氏が著書の中で、欧米風のリビングルームを取り入れた日本の住まいの中で、こんな光景が普通に見られるのだろうかと疑問符を投げられていました。少なくとも私の家庭はそんな風ではありませんでした。

学校から帰ると海軍兵学校で終戦を迎えた父が竹刀を構えていたり、明治生まれの祖父がゴルフクラブを握りながら、ビートルズのレコードに興じていたり。スープを温めている母はいたものの、暖炉もロッキングチェアーもなく、かわりに掘り炬燵がありました。幸いなことに父が私に1日の出来事を訪ねることはありませんでした。従って私が毎日のように先生から拳骨を食らっていることを、PTAまでの間は父母は知る由もなかったのです。しかしほのかな罪悪感から、そのことをこっそりと優しい祖母に打ち明けるのでした。庭にはシェパードではなく、雑種の日本犬がいました。


 宮脇氏が著書の中で、多くの日本人が生活環境の違いを考慮に入れないまま欧米流のリビングルームの幻想に浸り、あまり機能しない間取りを取り入れ過ぎたと指摘されていました。宮脇氏は、日本の場合は大きな多目的机を家の中心にドーンと置いて、家族の集う場所にすべきではないかと提案されています。大きな机で家族全員で食事もすれば、端っこで子供達が宿題もする。お父さんはここでビールを飲みながらナイターを観戦もする。日本においてはこのような家族が集う場所を作るべきと、まことにごもっともなご提案だと思いました。

もちろん日本でも、父親が暖炉の前でパイプをくゆらせるような、外国映画を地でいくような家庭は存在します。しかし多くの家庭でその生活スタイルを目指すのは無理があるというものです。最近は子供が外から帰ってきて、親に挨拶もせずに勉強部屋に直行する、食事の時間もばらばらな家庭が増えていると聞きます。やはり家族の中心の場を必ず通るような動線は、家庭に必須ではないかと思うのです。


 私も祖父の古い自宅を立て替えた際に、高度成長期のアメリカテレビドラマの影響からなのか、リビングダイニングルームを取り入れました。しかしそれがうまく機能していたかどうかは果たして疑問なままです。


 先日リスボンのインテリアデザイン事務所を訪問しました。この時ポルトガル人のスタッフがこんなことを話してくれました。ポルトガルでは、ダイニングテーブルで家族や友人と食事をした後、ソファに移動せずにそのままテーブルを囲んで話に興じるとのこと。ソファに移動して話をすると堅苦しい雰囲気になるからだそうです。ポルトガルでのソファの役割はシリアスな話をするか、もしくは主婦が昼間に休憩するための場所で、決して楽しく語り合う場所ではないと説明してくれました。


 私も家内もその話を聞いて、インテリアについての考え方を少々修正しなくてはと考えた次第です。祖父の古い家にもソファはありましたが、現代のソファとは随分と体裁や機能が異なっていました。とりわけ、祖父の書斎兼応接間にあったソファは当時の典型的な応接セットであり、私どもも使っている、L字型のカウチソファとは一線を画すものでした。


 ところで、前述の宮脇檀氏はこうもおっしゃっていました。日本人はラテン系民族と同じく、本来は郊外より街中に住む方が向いているのではないか。英国を模倣して、郊外の田園風景を求めて居住区域を広げていったものの、そこには想像していたような美しい川のせせらぎや瀟洒な住宅地を必ずしも実現したとは言えないのではないか。私も同感です。ロンドンの郊外や湖水地方のような豊かな自然と共存した街並みを、少なくとも首都圏で現実化できたとは思えません。かと言って、パリやローマの中心部のような住環境を東京で実現できるかと言ったら、都市のあり方や生活習慣などの違いから、同じようにはいかないでしょう。


 リスボンに来てから感じたことは、同じ人間社会だから共通点の方が多いものの、日本との違いという観点で都市生活を眺めた時、根本的な違いが見えてきたという点です。政治制度、行政、地価、税金、食生活、余暇時間、言語、地域性など、表面だけ真似しようにも如何ともし難いまでもの隔たりが生活の根底に見えてきます。社会制度のようなものから、根源的な人間の価値観に至るまで、社会の構成要素一つ一つの積み重ねで、人のあり方はこうも変わるのかとつくづく思います。自然環境などの宿命的に変え難いものはともかく、文明生活を構築してきたものの組み合わせでこれほどまでも異なる社会のあり方が体現されるものかと感心する毎日です。


 とりわけ人間の意思決定、それも社会のリーダー格たる国家の上位組織の判断が、社会のあり方に絶大な影響力を与えていることをしみじみと感じます。日本の社会における情で繋がれた寄り合いも大切な面がある一方で、有事の際の意思決定において日本型の組織とリーダーシップがうまく機能するのかは甚だ疑問です。


 その一方で、インターネットやキャッシュレスの普及、流通の最適化、品質管理の向上などにより、文明社会が均質化してゆく側面もひしひしと感じます。リスボンにもアメリカ型のショッピングモールやフードコート、郊外型の大規模店舗がいくつも存在します。もちろんインターネットや携帯も普通に使え、キャッシュレス化は日本よりはるかに進んでいます。


 同じような驚きがちょうど20年前にリオデジャネイロと上海を訪問した際にもありました。リオでは前の年までボサノバ演奏だった店がディスコに変わり、上海ではアメリカ風のテレビCMに驚きました。今日ではさらにインターネットが普及し、流通や小売の分野でアメリカ流の均質化と合理化が促進されているように思います。

さらに無国籍化を強烈に感じるのは現代の自動車です。リスボンに来てからUBERを利用する機会が増えましたが、ドイツ車、フランス車、日本車、スペイン車、韓国車、ルーマニア車、イタリア車、スウェーデン車のどれに乗っても、同じようなパッケージングとインテリアの品質に驚くばかりです。お国柄とメーカーの特徴が希薄になったことが寂しい限りです。


 文明は急速に進歩しても人間の進化は遅々たるものだと思います。インターネットやITの普及による社会インフラの共通化と、それぞれの人種や民族が培ってきた文化が今後どう折り合いをつけてゆくのかを考えさせられる昨今です。

ここ数年あちこちで聞く、グローバリズムという言葉に、経済面だけでなく文化文明面においても少々不安を感じている今日この頃です。

 写真はリスボンの中心部に聳え立つ、アモレイラスショッピングセンターです。1、2階(ポルトガルでは0、1階)、高層階はオフィスで、屋上は展望台になっています。

関連記事

コメント

この記事へのコメントはありません。

TOP