2019年10月、私はポーランドのワルシャワから成田までLOTポーランド航空に乗りました。その際に、日本語が上手なスチュワーデスがいたので聞いてみたら大学で日本語を学んだとのこと。その後、ポーランドがヨーロッパ最大の親日国であることを知りました。
先ごろお亡くなりになった竹内結子さん主演のテレビドラマなどで有名になったのでご存知かと思いますが、ポーランドにおいてはロシア革命の際、シベリアで孤立したポーランド孤児を救ったことが日本への尊敬と信頼を決めました。ポーランドと歴史的なつながりの強い欧米諸国ですら孤児の引き取りを拒否したにも関わらず、当時の原敬首相はただちに閣議を召集し「帝国政府は申し出を応諾す」という驚くべき回答をポーランドに返したのです。
ポーランド孤児がウラジオストクから敦賀、さらに大阪の赤十字阿倍野病院に到着したことが新聞で報じられると、山のような衣服、玩具やお菓子が送られて来たそうです。
原敬は戊辰戦争で敗軍の南部藩に生まれたことで、親を失い泣き叫ぶ孤児たちの姿が離れなかったとのこと。欧州の戦乱が収まり、孤児たちが返され、日本で受けた手厚い看護と歓迎がポーランドに伝わるや、全土に日本への感謝と熱狂が起こりました。この時、松澤フミ看護婦は腸チフスで絶命しました。
松澤フミは、母も姉も失いしかも凍傷で手足を失った女児(当時3)には自分が代わりになるといい常に付き添い、そのために女児は助かったものの、女児が罹っていた腸チフスがうつり23歳での殉職しました。松澤フミは1921年、ポーランドから赤十字賞を、1929年には名誉賞も贈られました。
ボーランド極東委員会の副会長のヤクブケヴィッチ副会長は、手紙でこう謝辞を述べたとのことです。
「日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種である。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてくれた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘れることはない。われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとってポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一度や二度ではない。しばしばあった。ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわれは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれたことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られている。ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることを伝えしたい」
原敬、松澤フミ、そしてリトアニアでポーランドなどから避難してきたユダヤ人などに大量のビザを発給した杉原千畝、トルコのエルトゥール号の乗客乗員を救助した島民、最近ではアフガニスタンで偉業を成し遂げた中村哲など、偉大なる先人により日本は国際的に尊敬と信用を得てきました。
中村哲氏においては、他国の大統領が葬儀の際に日本人の棺を担ぐという光景に、驚きそして涙しました。
私もポルトガルという親日的な国に住んで、先人の築いた功績による恩恵に日々感謝しています。一例としてブラジルに移住した日本人の偉大な功績のおかげで、リスボンに住むブラジル移民のお店に行くと一緒に写真を撮らせて欲しいと言われるほどです。
現在のポルトガルは人種差別が事実上皆無の国ですが、特に日本人とわかると現地の人がより親密に接してくれるのがありがたいです。ブラジルで話されるブラジルポルトガル語には「ジャポネス・ガランチード(japones garantido)」という言い回しが あるそうです。「日本人なら信用できる」という意味だそうです。
こうした話を聞くにつけ、私もひとりの日本人として、先人の築いた信用に恥じない立ち振る舞いを及ばずながらしていかなくてはならないと、日々心が引き締まる思いが致します。
写真はジェロニモス修道院と一対をなす世界遺産、ベレンの塔です。ヴァスコ・ダ・ガマの世界一周航海を記念して建てられた船の行き来を見張る要塞です。
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