ポルトガルに移住して感じたこと

ポルトガルに移住して2年が経過しました。引越し、転職、学校のクラス変えなど、人は変化に対して多少なりともプレッシャーを感じるものです。いわゆるうつ病にしても、悪いことのみならず良いことであっても、生活環境の変化が引き金になることもあると言われています。昇進、結婚などがきっかけでうつ病になる方もあると聞きますから、自分自身をコントロールするというのはなかなか難しいものです。

 私どもも住み始めた頃は、ポルトガルというスローな社会、すなわち宅配が指定時間帯に届かない、5分後に電話すると言われて待つこと3時間後にかかってくる、特急列車が10分遅れで出発するなど、日本では考えられないことが起きるので少々戸惑いました。

 しかし慣れというのは不思議なもので、日本で当たり前と思っていたことが、当たり前でなく感じられてきたのです。要は宅配便が指定通りに届かない前提で生活するようになり、それまで絶対に正しいと思っていた確信がどんどん揺らぎ、むしろこのスローな社会が心地よく感じられるようになってきたのです。それは慣れたという表現を超えた現象で、日本で培った固定観念が崩壊したのです。

 現在はむしろ、人々が優しく親切、食べ物が美味しい、物価が安いなど良い面ばかりが目につくようになり、今ではすっかりポルトガルの虜になっています。

 ところで現地でアジアンヘイトは大丈夫かと日本に住む友人などから聞かれるのですが、それどころか日本人とわかると特に親切にしてくれるので何の心配もしていません。他のアジア人に聞いても、この国では人種差別はほぼ皆無と言います。

  むしろポルトガルでは日本への関心が非常に高いです。先人のお陰様で日本人である私たちは特に親切にされるので大変ありがたいです。

 リスボンでは日本文化に関心がある人に数多く出会いました。中でも武士道という言葉がよく聞かれます。武士道については諸説があり、私も説明に気を使いますが、最近になって昭和天皇の最後の愛読書と言われる「海の武士道」の著者である惠隆之介氏の講義を聞き、大変感動した次第です。

 英国の外交官サムエル・フォール卿(Sir Samuel Falle)は海軍中尉だった太平洋戦争の際に、ジャワ海で日本海軍に撃沈され海に投げ出されました。

 そこを通りかかった日本海軍の駆逐艦である雷(いかずち)が422名のイギリス将兵全員を救助し、重油にまみれた兵士の身体を洗い新しい服に着替えさせました。

 駆逐艦・雷の艦長だった工藤俊作中佐は、甲板にイギリス将兵を集め、英語で次のように語ったそうです。「あなた方は勇敢に戦った日本海軍のゲストであるが故、あなた方をこれから盛大にもてなすことにします。」

 サムエル・フォール卿は、友軍のオランダ軍からですら、これほどのもてなしを受けたことはないと大いに感動し、母国に帰ったあとこの話を伝えたそうです。戦いにおいても勝者が敗者をいたわり讃えることが日本の武士道精神であると確信したそうです。この話は英国海軍のみならず、米国海軍も絶賛し、米軍月刊誌PROCEEDINGSにより世界に伝えられました。

 この本の愛読者であられた昭和天皇も、ご承知の通りその高潔な御心でダグラス・マッカーサー連合国最高司令官を感動させています。「マッカーサー回顧録」(1963)で、マッカーサーはこう語っています。

 「天皇の話はこうだった。「私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました」 ――大きな感動が私をゆさぶった。死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」

 そして藤田侍従長は回顧録にダグラス・マッカーサーの言葉をこう記しています。

 「『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。 これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」とマッカーサーは言った。」(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和36年)。

 

 このダグラス・マッカーサーも頭脳明晰のみならず、大変な人格者だったそうです。

 私自身、西洋に追い越せ追い抜けという時代に育った世代です。還暦を過ぎてポルトガルに来て、改めて日本人に生まれたことのありがたさ、そしてこの国で日本人として生きられるありがたさを痛感した次第です。

 写真は近所にある発見のモニュメントとその広場に描かれた世界地図です。

日本地図の近くに「1541」という 数字が描かれています。この年にポルトガル船が豊後国に漂着し、領主の大友宗麟にカボチャの種が贈られたそうです。

 私は1543年のポルトガル人による種子島への鉄砲伝来が最初だと思っていたので意外でした。

 

 

テキスト。サンプルテキスト。

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