日本で世界でどう生きるか (24)均質化する文明社会

お父さんは暖炉の前のロッキングチェアーでパイプを燻らせながら革表紙の分厚い本を読んでいる。お母さんはキッチンで静かにスープを温めている。学校から帰宅したジョンの後からシェパードがついて入ってくる。
お父さんは夕食を囲むテーブルでジョンに向かってこう言った「ジョン、今日学校であったことを、お父さんとお母さんに話してごらん。」
私の世代より上の方は、日本の高度成長期に放映されたアメリカのテレビドラマでこんな光景をご覧になったことが1度や2度はおありであろう。
かつて建築家の宮脇檀氏が著書の中で、欧米風のリビングルームを取り入れた日本の住まいの中で、こんな光景が普通に見られるのだろうかと疑問符を投げられていた。少なくとも私の家庭はそんな風ではなかった。学校から帰ると海軍兵学校で終戦を迎えた父が竹刀を構えていたり、明治生まれの祖父がビートルズのレコードに興じていたりした。スープを温めている母はいたものの、暖炉もロッキングチェアーもなく、かわりに掘り炬燵があった。父が私に1日の出来事を訪ねることはなかった。従って私が毎日のように先生から拳骨を食らっていることは父母も知る由はなかった。しかしほのかな罪悪感から、そのことをこっそりと優しい祖母に打ち明けるのだった。庭にはシェパードではなく、日本犬の雑種がいた。
宮脇氏が著書の中で、多くの日本人が生活環境の違いを考慮に入れないまま欧米流のリビングルームの幻想に浸り、あまり機能しない間取りを取り入れ過ぎたと指摘していた。宮脇氏は、日本の場合は大きな多目的机を家の中心にドーンと置いて、家族の集う場所にすべきではないかと提案されている。大きな机で家族全員で食事もすれば、端っこで子供達が宿題もする。お父さんはここでビールを飲みながらナイターを観戦する。日本においてはこのような家族を集う場所を作るべきとのことだ。もちろん日本でも、父親が暖炉の前でパイプをくゆらせるような、外国映画を地でいくような家庭は存在するのだろう。しかし多くの家庭でその生活スタイルを目指すのは無理があるというものだ。最近は子供が外から帰ってきて、親に挨拶もせずに勉強部屋に直行する、食事の時間もばらばらな家庭が増えていると聞く。やはり家族の中心の場を必ず通るような家の動線は、家庭に必須ではないかと思う。
私も祖父の古い自宅を立て替えた際に、高度成長期のアメリカテレビドラマから受けた幻想から、リビングダイニングルームを取り入れた。しかしそれがうまく機能していたかどうかは果たして疑問である。
先日リスボンのインテリアデザイン事務所を訪問した。この時ポルトガル人のスタッフがこんなことを話してくれた。ポルトガルでは、ダイニングテーブルで家族や友人と食事をした後、ソファに移動せずにそのままテーブルを囲んで話に興じるとのこと。ソファに移動して話をすると堅苦しい雰囲気になるからとのことだ。ポルトガルでのソファの役割はシリアスな話をするか、もしくは主婦が昼間に休憩するための場所で決して楽しく語り合う場所ではないと説明してくれた。
私も家内もその話を聞いて、インテリアについての考え方を少々修正しなくてはと考えた次第です。祖父の古い家にもソファはあったが、、現代のソファとは随分と体裁や機能が異なっていた。とりわけ、祖父の書斎兼応接間にあったソファは当時の典型的な応接セットであり、最近流行りのL字型のカウチソファとは一線を画すものだった。
ところで、前述の宮脇檀氏はこうもおっしゃっていた。日本人はラテン系民族と同じく、本来は郊外より街中に住む方が向いているのではないかとのことだ。英国を模倣して、郊外の田園風景を求めて居住区域を広げていったものの、そこには想像していたような美しい川のせせらぎや瀟洒な住宅地を必ずしも実現したとは言えないのではないかとのこと。私も同感である。ロンドンの郊外や湖水地方のような豊かな自然と共存した街並みを、少なくとも首都圏で現実化できたとは思えない。かと言って、パリやローマの中心部のような住環境を東京で実現できるかと言ったら、都市のあり方、ライフスタイル、物流、店舗展開などの違いから、同じようにはいかないだろう。
リスボンに来てから感じたことは、同じ人間社会だから共通点の方が多いものの、日本との違いという観点から都市生活を眺めると、根本的な違いが見えてくる。政治制度、行政、地価、税金、食生活、余暇時間、言語、地域性など、表面だけ真似しようにも如何ともし難いまでもの隔たりが生活の根底に見えてくる。社会制度のようなものから、根源的な人間の価値観に至るまで、社会の構成要素一つ一つの積み重ねで人のあり方はこうも変わるのかとつくづく思う。自然環境などの宿命的に変え難いものはともかく、文明生活を構築してきたものの組み合わせでこれほどまでも異なる社会のあり方が体現されるものかと感心する。
とりわけ人間の意思決定、それも社会のリーダー格たる国家の上位組織の判断が、社会のあり方に絶大な影響力を与えていることをしみじみと感じる。
その一方で、インターネットやキャッシュレスの普及、流通の最適化、品質管理の向上などにより、文明社会が均質化してゆく側面も同時に感じる。リスボンにもアメリカ型のショッピングモールやフードコート、郊外型の大規模店舗が存在する。もちろんインターネットや携帯も普通に使える。キャッシュレス化は日本よりはるかに進んでいる。
同じような驚きがちょうど20年前にリオデジャネイロと上海を訪問した際にもあった。リオでは前の年までボサノバ演奏だった店がディスコに変わり、上海ではアメリカ的なCMに驚いた。今日ではさらにインターネットが普及し、流通や小売の分野でアメリカ流の均質化と合理化が促進されているように思う。さらに無国籍化を感じるのは現代の自動車である。リスボンに来てからUBERを利用する機会が増えたが、ドイツ車、フランス車、日本車、スペイン車、韓国車、ルーマニア車、イタリア車、スウェーデン車のどれに乗っても、同じようなパッケージングとインテリアの品質に驚く。車の顔と後ろ姿の特徴が希薄になったことが寂しい限りである。
文明は急速に進歩しても人間の進化は遅々たるものである。インターネットやITの普及による社会インフラの共通化と、それぞれの人種や民族が培ってきた文化が今後どう折り合いをつけてゆくのかを考えさせられる昨今である。
写真は、飛行機を見かけるとカメラを構える習慣を、50年間変えられない私の姿である。
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