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日本で世界でどう生きるか(22) 幸福について思索したこと

 リスボンで生活を始めて、幸福に対する考え方が随分と変化した。古来から幸せとは何か、どうしたら幸せになれるかということが議論され、いまだに明確な回答を見出せないでいる。そもそも幸福という言葉の定義自体が主観的であるが故に、幸福についての探求をしてもあまり意味がないだろう。ここでは幸福を「主観的な心の充足感」と仮の定義をして先に進ませていただく。
 
 さてこの地で感じたのは、何事にも求めすぎないほどよさが人の幸福にとって大切なのではないかということである。アメリカ型の消費社会と自由競争が当たり前になった20世紀、より良い生活を志向し、より多くを所有し消費することが当たり前になった。文明の発達により、生存を脅かす疾病や大自然の脅威から身を守り、飢餓の恐怖から解放され、さらに生活の洗練度を高めることを志向してきたことは間違ってはいなかったかもしれない。
 しかし衣食住が事足りた後の人間の欲望というのは自分も含めて実に始末に負えないものだと改めて痛感する。より快適な生活、より広い家、より高性能な車、目に見えないものでは学歴、地位、名誉など。しかしこうしたものが目的化すると際限がなくなり、どこかにかすかな不満と焦燥感を常に抱えたまま日々を過ごすことになる。
 
 そうは言ってもより洗練された生活を否定し、あえて不自由さに甘んじることが人間の未来にとって正しいとも思えない。筒井康隆の短編小説に「幸福の限界」という題名の作品がある。石川達三の同名小説があるが、そちらではなく筒井康隆の「おれに関する噂」や、「筒井康隆全集14巻」に所収されている方である。解釈は人それぞれだが、私には物質的に満たされてゆくことでの逆説的な不満と、それでも欲望を満たすことを止められない現代人が描写されているように思えた。

 人類は言語によりつかみどころのない幸福という概念を発明し、それを追求する過程で何らかの勘違いが起こしてきたように思う。その原因が文明にあるかというと私は必ずしもそうは思わない。産業革命以前にも人類は何度も戦争を起こし、産業革命以降の近代においても多くの地域において人類は飢餓に苦しんでいる。

 ところで42年前に初めてパリを訪れた際に泊まったモンパルナスのホテルは1泊30フランだった。当時1フレンチフランは約60円だったから、約1800円ということになる。その頃家庭教師のアルバイトで月収3万円だった大学生の私の経済力に見合ったレベルのホテルだった。シャンゼリゼ大通りで見上げる4つ星、5つ星の高級ホテルは雲上の宮殿に見えた。しかしその後社会人になって、星のついたホテルに泊まれるようになったものの、そこで得たものは単なる快適さだけである。そしてその快適さの代償が、より格付けの低いホテルに宿泊した際の言葉にはならない漠然とした不満感だった。
 
 当時私が「雲上の宮殿」に憧れたかというとそういうわけではない。旅費を浮かすためにフェリーや夜行列車で夜を明かしていた私にはホテルは寝ることができればいい場所だった。従って宮殿はむしろ無用の長物でしかなかった。その無用の長物に足を踏み入れた途端、後戻りすると息苦しくなる快適さという罠にはまったのである。

 世界の大富豪には極めて質素な生活をしている人を時々見かけるが、それは単なる節約だけでなくこうした原理原則に気づいた賢明さからではないかと想像する。

 さて、人間が幸福から遠ざかる要因として、私は自分の欲求ではないものを求めること、資本主義社会における社会的洗脳、そして他者との比較から始まる人間の権勢欲とそれを支える社会構造があるように思う。

 我々は本来自分の根源的な欲求に基づいた選択をしているだろうか。外部からの何らかの力で、自分の欲求を捻じ曲げられてはいないだろうか。「恋人ができる幸運のペンダント」の広告を人ごととして笑っていられるだろうか。有名な俳優が所有している車を買う行為も、人気タレントが美味しそうに食べるチョコレートを手にする行為も、自分の欲求でないものへの依存から安心感を得るという意味ではさほど変わらないではないか。しかしこの程度のことなら自分の愚かさにすぐ気付くのだが、より深いレベルの社会的洗脳は始末に終えない。私が物心ついた高度成長期から今に至って、多くの日本人は子供を有名大学に入れて有名企業に入社させることが正しいと洗脳されてきた。そしてそれは生活の安定という一面ではある種正しい。

 しかしその価値観の源流が産業革命以降、工場労働者は均質なプロセスを間違いなく実行し、失敗を犯させない資本家の価値観にあるところに気づかないことには、若い起業家や芸術家などが育つチャンスを逸することにもなりかねない。そればかりでなく、人が自分の真の欲求に気づかぬまま、常に生きずらさを味わいながら生きることにもつながりかねない。

 私自身、小学生時代に漫画家や野球選手になりたかった時期がある。野球選手については私の「100メートルを20秒以内で走れる、腕立て伏せを10回以上できる抜群の運動神経」でも恐らく無理なことが後に判明するのだが、仮に野球選手が私の真の欲求で、それを目指し人生の途中で挫折したとしても、今より心の充足感はあったかもしれない。家族を支える責任という観点から生活の安定は大切だが、自分で責任を負える範囲でのチャレンジを阻害する価値観の醸成は、人を幸福から遠ざけ、社会を無味乾燥なものにしかねない恐ろしさがある。

 そして人の価値観が均質化された中に巧みに入り込んでくるのが権力である。物言わぬ国民、ある種の幸福感に浸った社会は権力にとって実にコントロールし易い対象となる。しかしこの権力たるものも、その最小単位は人である。この人の権勢欲がどこから生じ、どのように抑制されるべきかは私にとってずっと悩ましい疑問であった。かつて心理学を学ぶ中で最新のDNAと無意識についての知見を得た中で、DNAと無意識が生後の後天的な経験値までをも子孫に継承するメカニズムがあることを知った。飢餓に対する恐怖のようなものは人類の生存のために最小限必要な要素だが、文明が発達する中で人類が変化する環境に適応するためには脳の後天的変異が起きることは確かに理にかなっている。そして一方では、ダーウインの唱えた進化論が環境適応に起因するものではなく、それぞれの個体の意思によるものではないかという説が有力になってきている。
 人間の権勢欲が自然界で生き残るために必要なもので、それが今も引き継がれているとすれば、次なる文明はより高い次元の文明を目指す意思の力とそれに伴う環境変化で、人類のDNAと無意識にある情報を書き換え次世代に継承する時代が訪れるのではないかという気がする。

 最初の話から随分と迷走してしまったことをお許しいただきたい。
 ポルトガルは2008年のリーマンショックの後にギリシャと並んでどん底だった経済が、強気の経済政策でこの数年 GDPは上向きに転じている。しかし私がこの国に来て良かったと思うのは、GDPの数値ではない。「世界平和度指数(GPI)」がアイスランド、ニュージーランド、オーストリアに次いで第4位であることと、市民自らが認める心の優しさと親切さである。

ここで改めて思うのは、本来人は衣食住事足りれば、生きているだけで幸せなはずであるということである。私は幸せとは求めるものではなく、それがすぐ目の前にあることに気づくことであることをこの地から学んだ。

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