日本で世界でどう生きるか (15)

国税庁のOBと小一時間話をした。彼は現役時代の経験から、税の使い道についていまだに大きな疑問を持っているという。何故こんなところに税が使われるのかと思う事例を多々目にしてきたそうだ。しかしそれを是正しようにも、税の使い道は強固な利権に支えられていて、解消するには百年河清を俟つのが現状とのことだ。
そんな話を聞くにつけ、仮に将来政権交代が起きたところで、長年に渡って構築されてきた日本の利権構造を解体することは容易ならざるものと強く意識するようになった。
沈みゆく日本を変えるには、政治を変えることが大前提なことはわかっているが、利権を生み出す日本社会特有の構造がどこから生じるのかをも考える必要がある。
利権は、社会の利益より己の利益を最優先するマインドに端を発する。己の利益を一切顧みない聖人君子に誰もがなれるわけもなく、それが故に己の利益と共に公の利益への配慮を欠くべかざるとする構造や枠組みが社会には必要だ。大橋巨泉氏が、欧米では日本と異なり、例えば名門ゴルフ場の理事クラスでも草むしりのようなことを義務として強いられるのだとおっしゃっていた。要は人として、パブリックな立場を意識して生きられるかが社会の成熟と大いに関係する。人が社会性を持った生き物である以上、個を主張するだけでなく、公への配慮を避けて通れない。こうしたいわゆるパブリックの概念が、日本社会において年々希薄になっているのではないだろうか。特に組織の上に立つ立場の人間は、パブリックな概念をより昇華させたノブレスオブリージュを持たなくてはならない。すなわち財産、権力、社会的地位を持つことには責任が伴うことを自覚しなくてはならないのだが、日本の現状は果たしてそうなっているだろうか。
パブリックな概念と共に、人の欲望が暴走するのを食い止める手段は多々存在する。躾、教育、法律、宗教。とりわけ西洋社会において、宗教は文明社会におけるブレーキの役割を果たしてきた。一方日本においては厳密な意味で宗教という概念が生まれたのは明治以降である。神道と言えども、西洋社会と同じ概念の宗教という捉え方は明治以前はなかったのである。しかし西洋社会における唯一絶対神の代わりを担ったのが、日本社会の「お天道様」であろう。太陽そのもの、太陽神、汎神、神様、人によって解釈は異なるものの、西洋の神と同じく畏れ多き存在であることには間違いない。私の子供の頃は「お天道様が見ている」というフレーズがあちこちで使われていた。パブリックの概念が希薄になっていると思われる日本社会で、このところお天道様の登場がめっきり少なくなってきているように思う。
ところで今日では皮肉なことに、公より個を偏重する利権構造と共に、個より国益を優先する国家主義が芽生えてきていることを危惧せざるをえない。ここで言う国家とは、国民全体が成員となっている本来の意味での国家ではなく、一部特権階級が構成するところの国家である。そういう意味では、公を志向しているのではなく利権構造が変容しただけのもので、その本質は変わらない。
日本は近代になって英国の議会制度を取り入れ、それが社会風土に馴染まなかったという指摘もある。独裁制から共和制に移行した欧州の一部の国のように、歴史的変遷の中で民意が政治制度に反映された国であっても、利権構造がないわけではない。その中にあって日本が欧米と大きく違うのは、人的ネットワークによる意思決定がルールによる意思決定をはるかに上回っているからではないかと私は推測する。ルールがあってなきが如くの社会は、国政の現状を見れば一目瞭然である。日本において政治権力を支持する者が、果たしてどれほどその理念を正しいと考えているのか、それとも己の利益からおかしいと思っても支持するのか。
神との契約という概念がない日本においては、欧米に比べてルールという言葉の効力が極めて希薄に思える。その中にあって前出の「お天道様」は欧米の神に優るとも劣らない日本人の良識と美意識を形成してきたように思う。お天道様はルールという杓子定規なもののみならず、より高度で繊細な人の営みまでもを包括してきたのではないか。日本に再び「お天道様」の御威光が降り注ぐ日が来ることを祈るばかりである。
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