共に生きるということ

私は80年代の前半、慶大工学部(現在理工学部)の研究室で、T助手(現在は名誉教授)の元で卒論のための実験をしていた。その頃、陰ながら私を支えてくださったのが同じ研究室の先輩、修士課程のKさんだった。
Kさんは私が迷った際に、私をあえて励ますわけでもなく、ただ淡々と短い言葉で的確に言葉をかけてくださった。私はこの静寂な深い思いやりに、安心して最後まで卒論を仕上げることができた。
このことを思い出す時に頭をよぎるのは、ある文豪が若い頃に、東大合格の知らせを恩師に報告したところ、ただ一言だけ「よかったね。」という言葉をかけられたという逸話である。文豪はその時は何てそっけない返事かと思ったが、しばらくたってから恩師の言葉がいかに愛情深かったのかを理解して涙が溢れ出たそうである。
私はKさんとこの文豪の恩師に、共通する人の優しさと思いやりを感じるのである。Kさんは都内の由緒あるお寺の住職のご子息だった。在学中にご自身が高野山への修行に行かれることでそのことがわかったのである。人の育ちとその意味合いというのはこういうものかとつくづく感じた次第である。
話は変わるが1977年に起きた横浜米軍機墜落事件で、男児2名が翌日に死亡した。事故当時26歳の母親に事実が知らされたのはその1年3ヶ月後、そして4年4ヶ月後に母親もこの世を去った。この悲劇に当時の花形アナウンサーが生放送中にこらえ切れずに、涙を流しながらニュースを伝えたことが記録に残っている。
アナウンサーたるもの、放送中に感情を抑えるべきとの見方もあるかも知れないが、私はむしろ涙を流したアナウンサーに人としての真実味を感じ、その職責においても崇高なものを感じるのだ。
これまでの人生で心の支えになった人を振り返ると、励ましや慰めの言葉よりも、「私はあなたと共にいる」という感覚を伝えてくれた方のように思う。普段どんな言動を尽くされたとしても、いざという時に自分の元を去っていく人よりも、どんな時でも自分への共感を常に感じさせてくれる方に支えられて生きてきたように思う。
マザーテレサの有名な言葉に「愛の反対は憎しみではなく無関心」というのがある。人への無関心はもちろんのこと、政治への無関心も社会への参画という意味では同義だと思う。
そう言っている私自身、これまでにいつの間にか傍観者を演じてしまったことがあったに違いない。どこまでできるかはともかく、人様と共感共生する人生を送りたいと思う。

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