日本と世界でどう生きるか(3) 危機管理

危機に陥った時、人の本性の一面が見える。それが全てではないが、人の器が良くも悪くもくっきりと浮き彫りになることは否定できない。
国家や組織においても同様である。災害時に後手後手になる政府の指揮系統、不祥事が発生した際に、謝罪を後回しにして大きな信用を失う企業など、このところ日本の危機管理意識は急速に低下しているように思う。
人が危機が遭遇した際にうろたえるのは当たり前である。職業的にそれが許されないケースもあるが、多かれ少なかれ人が危険に遭遇した際に感情が揺れ動くのは仕方がない。
しかし次なる言動が人の器をある種決定づける。それは他人のせいにして自らの責任を免れようとする者と、責任の所在はさておいて、危機を乗り越えるために他者と協力する者との違いである。
日本の社会においては責任の所在を追求するあまり、問題の本質を見誤り、対応策はおろか最終的には責任の所在すら曖昧になるケースが少なくない。
中根千枝氏の論文にある日本社会特有な「場の集団形成」、そこから波及するボスは存在するがリーダーが存在しない社会、様々な観点からその構造を分析することができる。中でも野中郁二郎氏が「失敗の本質」で指摘されている、システムではなく属人的な意思決定という視点はこの問題の本質に大いに迫れるような気がする。
私は長年航空事故に関心を持ち続けてきた。昔から日本で事故が起きると墜落に至らないケースであっても着陸後に操縦室に警官が立ち入り、まずは責任の所在を明らかにしようとする。その姿勢に私は現場のパイロットと共に大いに疑問を感じてきた。日本のプロパイロットの有志はこれに毅然として立ち向かってきた。その理由の一つが日本の事故調査報告書の多くが、例え事故原因の追求に至らなかった場合でもパイロットミス、すなわち個人の責任で一件落着とするケースが少なくないからである。
その一方で、米国の国家運輸安全委員会(NTSB)はパイロットが全てを告白することで、責任を問わないという姿勢を取っている。どちらが社会にとって有益からは言うまでもない。
私は責任の所在はどうでも良いというつもりは毛頭ない。むしろ日本においては最初から個人や組織が責任を持って言動するという気概が失せているところに問題があると思っている。無責任な言動が、最終的に責任のなすり合いという見苦しい結果を生む悪循環のシステムが構築されてしまっているのではないかと思う。福島の原発事故においては。原発製造メーカー、監督官庁、原発運用者、それぞれの組織の責任範囲が当初から明確になっていれば、現在のような誰も責任を取らないというような曖昧な形に終わり、しかも原発再稼働が意志決定されるはずがないのである。
そしていざ有事の際には、まずは責任の追求よりも問題解決への初動が滞らない社会システム作りが急務と言えるだろう。
写真は新宿駅南口から見たドコモタワー。本文とは関係ありません。
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